エッセイ。『設計とはいかに苦しいものか。』
設計とはいかに苦しいものか。
永遠に正解はない。
正解と思って造り上げたものが、数十年後に不正解になることもある。
それでも向かわなければならない。
誰かのための唯一無二の答えが喜ばれるようで
それは全体のために、そして長期的に見てその人のためにもならないことがある。
責任は非常に大きい。
建てた建物が誰かの命を傷つけることもある。
傷つくのは住まい手かもしれないし、動植物かもしれない。
星かもしれない。
無邪気ではいられない。
建築は純粋芸術とは異なり、様々な事象が複合的に絡み合う。
敷地、
予算、
要望、
利便性、
この辺りが一般的な家づくりのメインエレメント。
その上で
芸術性、
幸福、
長期的ビジョン、
など高次のエレメントも同時に追求していかなければならない。
例えば環境負荷低減。
テーマ自体は数十年前からあった。
そのテーマに設計者が熱中するかどうかが肝。分かれ目。
時に合理性を超えて、経済性を超えて、熱中するテーマがある。
それは当然なことで、未来に焦点を当てれば、現時点での合理性を欠くことに当然なる。
強烈に得たいものを得るために。
それを「伝えられる」ことも設計者に求められる大きな要素。
説得能力。
それにはやはり熱中が必要。
................
なにをゴールに設定するのか。
なにを得たいのか。
なにを叶えたいのか。
建主様に全てを任せるのか。
設計者のエゴを押し通すのか。
もちろん、良いエゴと悪いエゴがある。
どちらでも良い。
重要なのは、そのエゴで他者の心を震わせられるか。
今「良い」とされていることが、10年後も良いとされるかは分からない。
そういう恐怖もある。
強い発信は強い武器になり得るが、それは将来自分を傷つけるものになるかもしれない。
建築の世界はそれの繰り返しだった。
新しい価値観を造っては壊し、造っては壊し。
その代償も明るみになってきた。
当然得てきたものもある。
今、バトンを渡されている。
怖くても、苦しくても、逃げられない。
逃げても逃げきれない。
結局やるしかない。
ひとつ建て、改善があり、ひとつ災害が起き、優先順位が変わり、
「今」に意識を向ければ、常に振り回される。
損が多い。
「未来」を見る。
なにが大切なのか。
なにが幸せなのか。
かけらでもそれを見出さなければ、ゴールを描けなければ、ものを設計することは出来ない。
常にそれを追求している。
これかな?
と思っては疑い、試し、感触を得て、
こっちのほうが良いかな?
と。
ひとつ軸になっていることがある。
長い時間をかけて、旅をして、触って、味わって、聞いて、話して、嗅いで、
ごつごつした幸せの原石のようなものを持ち帰ってきた。
知識では足らない。
考えるにも、手がかりが必要。
手がかりとは、原体験。
今、子供に与えたいもの。
、、、、
この文章は終わらない。
これからも続いていく。
設計。
最高に面倒くさい。
最高に煩わしい。
しかし、
少なくとも僕にとっては
こんなに最高な仕事はない。
この仕事を続けさせてくれている建主様に感謝です。
-「超高断熱の小さな木の家」escnel design-